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義足に愛着を持った日。パラトライアスリート・秦 由加子が扉の先でつかんだ世界とは?

2024年8月5日

情熱の源泉

スタートラインを前に「勝って少しでも上を目指したい。皆と喜びを分かち合いたい」と願う。アスリートならばそんな想いにかられた経験は一度や二度ではないだろう。秦 由加子も同様だ。秦は、リオ2016パラリンピック競技大会と東京2020パラリンピック競技大会に出場経験のあるトライアスリートで、キヤノンマーケティングジャパン(以下、キヤノンMJ)の社員でもある。

秦のアスリートとしてのこれまでの道のりは決して平坦ではなかった。13歳で右脚を切断、そこからスポーツと再び出合うまでに約10年の月日が流れた。だからこそ、大会でのスタートの瞬間、レース中、そしてトレーニングですら「夢みたい」だと秦は言う。秦は、なぜトライアスロンに挑み続けるのか? その情熱の源はどこにあるのか? 爽やかな笑顔で答えてくれた。

トライアスリート/パラトライアスロンとは?

トライアスリートは、トライアスロンに参加するアスリートを指す。秦が参加しているパラトライアスロンは、スイム(水泳)、バイク(自転車のロードレース)、ラン(長距離走)の3種目を連続して行い、順位を競う競技。スイムが750メートル、バイクが20キロメートル、ランが5キロメートルで、種目間のトランジション(次の種目に移行すること)も含まれる。なお、パラトライアスロンは、2016年リオデジャネイロ大会からパラリンピックの正式競技となった。障がいの程度や種類に応じて、6つのクラスに分かれて行われ、秦は「PTS2」クラスに属している。

自分のことが好きではない時期があった

キヤノンマーケティングジャパン 秦 由加子

突然、骨のガンである骨肉腫と診断され、完治させるために主治医と両親が相談して下した「脚を切断する」という決断。その決断を受け入れ、やむなく右脚の大腿部を切断することになったのは、秦が13歳、中学1年生のときだった。今のようにインターネットで情報を手軽に手に入れられる時代ではなかったため、逆に「不安はなかった。というより、当時は自分に起きていることがよく分からなかった」と話す秦。ただ、手術から日がたつほど現実が重くのしかかり、「本当は、私は切断したくなかった」と両親を恨んだこともあったという。

「でも今は、決断をしてくれた両親に感謝しています。自分で判断することはできなかったし、両親にとって、自分の子どもの脚とガンの完治をてんびんにかけるような判断なんて、どれだけ酷なことだっただろうか……。とはいっても、当時の自分としてはやっぱりつらかったですよね。体育は常に見学でしたし、人が運動している姿を見たくなかったから、運動会なんて一度も見に行きませんでしたよ」

そんな秦だが、大学卒業後に入社したキヤノンMJでの仕事にも慣れてきた時期に、近所のフィットネスクラブに通い始める。その動機は、どこにあったのだろうか?

「周囲の目を気にする生活が10年以上続いたその頃の私は、自分に障がいがあることをなるべく知られたくありませんでした。いつも足元を隠して歩き、親しくなった人だけに打ち明けるような性格で、自分のそんな性格があまり好きではなかったかもしれません。そんな自分をどうにかして変えたい、と強く思い続けていました」

とはいえ、秦を見る周りの目を変えることはできない。だったら、やはり自分自身が変わるしかないと考えたのだという。

「自分が変わるためにはどうすればいいんだろうと。で、小学校5年生までやっていた水泳なら自信があったし、自分が好きなことを始めれば自分自身を好きになれるかもしれない。それが、再びスポーツを始めた動機でした」

決心して通い始めたフィットネスクラブだったが、10分も泳ぐと周りの視線が気になり始める。

「実際、周りの人が私をどう見ていたのかは分かりません。でも、他人の視線ばかり気にして、自分の脚がどう見られているのかを考えてしまう。その感情がとても息苦しくて、好きな水泳ですら自分を変えるきっかけにはならないのかと落ち込みました」

しかし、秦は諦めなかった。「自分一人の力だけで、今の自分を変えることは難しい」と思い、「千葉」「水泳」「障がい者」というキーワードで調べ、障がい者の水泳チーム「千葉ミラクルズスイミングクラブ(以下、千葉ミラクルズSC)」の情報を見つける。千葉ミラクルズSCには、秦と同じ大腿部を切断した人や耳が不自由な人たちがいて、皆、それぞれのスタイルで水泳を心から楽しんでいた。その姿を見た秦は、さっそく千葉ミラクルズSCに加入した。

「好きな水泳でも、普通のフィットネスクラブの環境の中、一人で続けることは当時の自分には難しかったんです。同じような境遇の仲間と、水泳に本気で打ち込むことができたのが人生の転機になりました」

トライアスロンとの出合い。それは、ある雑誌の切り抜きと仲間の後押し

レース中の秦

トレーニングに打ち込む中、パラ水泳の普及合宿に参加するようになり、そこで専属コーチに出会う。そして、2009年からはコーチと一対一で水泳漬けの毎日が始まった。徐々にタイムも縮まっていき、自然と「パラリンピックを目標の一つにしよう」と話をするようになったという。導いてくれるコーチの存在は大きく、パラ水泳の強化指定選手にも選ばれた。

早朝から泳ぎ、その後出社して仕事、退社して再びプールに行き22時近くまで泳ぐ、という毎日。「朝練の後はゴーグルの跡が消えず、そのまま仕事をしていました」と、秦は笑う。肉体的には大変だったが、コーチや練習仲間、「頑張ってね」と応援してくれる同僚の存在はとても大きく、「自分が置かれている環境はとてもありがたい。応援してくれる人たちのためにもできる限り良い結果を残したい」という想いが秦を動かしていた。

2012年までは水泳に没頭していた秦だが、一緒に練習する仲間の中にはトライアスロンの競技者もいたため、トライアスロンも身近に感じていたという。

秦由加子

「トライアスロンをやる仲間は、水泳の練習が終わると、そのまま続けてバイクやランの練習もしていました。一緒にやろうって何度も誘われて、でも、最初は断っていました。トライアスロンに興味は湧いていたけれど、私には脚がないので無理だと思い込んでいたんです。ただ、何度か誘われるうちにだんだんと、自分がチャレンジしてみるのもアリじゃないかと思うようになりました」

あるとき仲間が、義足のトライアスリートが写った雑誌の切り抜きをわざわざ持ってきて見せてくれた。そのとき、秦の心は大きく動いたという。秦は当時をこう振り返る。

「皆にここまで背中を押してもらって、やらないという選択肢はないんじゃないか。周りにはトライアスロンの先輩方がいて、自分は今、トライアスロンができる環境にいるし、世界には自分と同じ障がいを持っていても挑戦している人がいる。あとは自分自身の気持ちだけじゃないか。コーチも含め、皆が私を待ってくれている。そう感じたんです」


秦 由加子が乗る競技用バイク

決断した後は早かった。当時、日本には大腿義足でトライアスロンに挑む人はおらず、ロールモデルがいない。ならば自分で探そうとインターネットで検索し、アメリカで開催されている障がい者トライアスロンのキャンプを見つけ、すぐに連絡をとって参加した。秦は、そのキャンプに参加した初のアジア人だったようだ。

「パラトライアスロンは、欧米には選手がいるものの、アジアでの競技人口はとても少なかったんです。障がい者となると競技人口は非常に少ない。そんな時代でした」

キャンプに参加したのは2013年。キャンプには義足の技師もいて、トライアスロン用の義足について学ぶこともできた。秦は、そこで学んだことを日本の義肢装具士に伝え、レース用の義足をつくってもらった。

同年、秦はその義足をつけ、自身初めてのレースとなる千葉・幕張で開催されたトライアスロン大会に出場した。結果は完走。沿道には応援の声、ゴールにはコーチの姿があった。コーチは秦より前に泣いていたという。

「義足で走るのは激しい痛みを伴うんです。だから、コーチだけでなく周りの仲間は、私がトライアスロンを始めるきっかけをつくれた喜びとともに、その責任も感じてくれているというか、私の痛みを思って自分も痛みを感じてくれているというか……。そんないろんな想いを持ってくれていたと思うんです。だから初めて完走したとき、皆が一緒にすごく喜んでくれて。個人競技だけど個人競技じゃない感覚でした」

義足ってそんなに悲観することではないのかも

秦由加子

コーチだけでなく、仲間や義肢装具士の皆と一緒にトレーニングを重ねた結果、2016年にリオ2016パラリンピック競技大会に出場、2021年には東京2020パラリンピック競技大会出場も果たす。そんな秦は、常に心に決めていることがあるという。いかなる場面でも、周囲の意見を聞きつつ、重要な決断は必ず自分で下すということだ。

「結局はやってみないと分からない。だから、自分で選択して、責任を持ってチャレンジしたいんです」

例えば、猛暑が予想された東京2020パラリンピック競技大会では、バイクを片足でこぐという決断をした。2019年のプレ大会の際は、義足を装着して両足でこいでいたが、汗で義足が外れないように都度義足を外して汗を拭かなければならなかったからだ。

レース中の秦

「それならば片足でやってみよう。(義足を装着しないことで)スイムからバイクに切り替える際のトランジションタイムも短縮できるだろう」

ただし、メリットもあればデメリットもあり、正解はない。何が自分のスタイルに合っているのか、今も試行錯誤の日々だという。2021年11月には、義足をつけて走るときに感じる痛みを和らげるため、思い切って脚の手術をした。その決断も自ら行った。

千葉ミラクルズSCの扉をたたいてから17年、トライアスリートとして成長してきた秦。右脚の義足に対する気持ちは変化したのだろうか。

「もしかしたら、義足ってそんなに悲観することではないのかも、と思うようになりました。義足に対するマイナスイメージを一番強く持っていたのは、自分自身だったのかもしれませんね」

義足に愛着が湧くようになり、いつしか外装(義足のカバー)を外して、義足を隠さずに外出することが増えた。その変化を、秦は「自分自身が変わって、周囲から感じる視線の捉え方も変わったのかもしれません。また、パラスポーツがテレビなどで流れるようになり、社会的に、義足に対する珍しさのようなものが薄れてきていることもあるでしょう」と分析する。

そんな自分の姿が「周囲に何らかの影響を与えているのかも」と感じた出来事があったという。沖縄でのトレーニング期間中、義足を隠さない姿でコンビニに入ったところ、「義足を隠さずにいる人を初めて見たよ」と男性に話しかけられた。義足を隠していない秦を見て、「感動した」と。ズボンの裾をまくった彼の脚もまた、義足だった。

「彼が、『義足を隠す必要はないんだ』という気持ちになり、義足に対する後ろめたさとか肩の荷とかがちょっとでも軽くなったらいいですよね。仲間が自分の背中を押してくれたように、自分の姿が誰かの背中を押したり、勇気を与えたり、気持ちを楽にすることができたらうれしいです」

とはいえ、秦自身は「障がいのあるアスリートという視点で注目することを、そろそろやめてもいいのでは」と感じているようだ。

「私を含め、世の中のすべてのパラアスリートはただ単に『スポーツをやる』選択をしているだけ。メディアでも個人でも、障がい者がスポーツに取り組む価値を伝えるのではなく、障がいのあるなしに関わらず、『スポーツっていいものですよ』とか、『やりたいと思ったときにやれる選択肢が人生を豊かにしてくれる』ということを伝えるだけでいいと思っています。早くそうなるといいですよね」

苦しい時期があったからこそ、今のすべてが夢のように感じる

秦由加子

秦は、2024年8月に迫ったパリ2024パラリンピック競技大会出場を目指してトレーニングに励む日々だ(取材時の5月現在)。朝は4時に起床、5時ごろからトレーニングが始まる。「肉体的には苦しいけれど、それすらも楽しいんです。トライアスロンが好きで、やりたいから続けています」と秦は言う。

さらに、「今この場所にいられることがどれだけ幸せか、決して当たり前のことじゃない。すべてが夢のよう」だと、まっすぐな瞳でこちらを見る。その瞳からは常に前向きな印象を受けるが、「そんなことはないですよ。皆さんと一緒で、弱気になったり、自分が嫌になったりすることもあります」と笑う。

「人とのつながりが、“今の私”にしてくれたのだと思います。社会にはかつての私のような心が弱っている人がたくさんいると思うんです。そしてその状況から自分でなんとか抜け出そうとするのには限界がありますよね。だからこそ、人とつながることが、それを乗り越えるきっかけになるのではないでしょうか。もし、自分が変わりたいと思うのであれば、小さな一歩、その一歩を踏み出すちょっとの勇気だけは持ってほしい。踏み出して周りに仲間がいることを知りさえすれば、後ろ向きな自分を変えることは難しくないはずです」

秦自身も、大腿部を切断してから水泳を再開するまでの約10年、悶々(もんもん)としたつらい時期があった。人生を変えたいと思って、そこから抜け出そうと必死になって扉を探していたという。やっと見つけた扉が開くと、そこにはたくさんの人がいて、可能性をつくってくれた。ただ秦は、「その扉はずっと開かれているのに、苦しいときほど見えないものだ」とも言う。

「私は10年以上苦しんできたからこそ、今があると思っています。今の環境が大切だと分かるし、その苦しい期間がなければ、ありがたみに気づかなかったかもしれません。今苦しいと感じている人も、その状況から抜け出す扉はきっとあります。そう信じてほしいと思います」

充実した毎日を送る秦には、パラリンピックだけでなく、新たな目標もあるようだ。「将来は、アイアンマンレースにも挑戦したいと思っています。トライアスロンをやっているからには、一生のうちに一度は経験してみたいんです」と目を輝かせる。

  • トライアスロンと同じ種目構成ではあるが、総距離が226キロメートルと、トライアスロンの51.5キロメートルの4倍以上となるレース
「コーチや練習仲間、応援してくれる同僚やファンの方々、全員で可能性を広げてきた」という秦は、「日々の中で大切にしていることを『一言』で教えてください」という問いに、「共同体 Triathlon」と答えてくれた
秦由加子

「『大腿部切断でトライアスロンをするなんて、痛くないの?』とよく聞かれます。もちろん痛いですよ。でも、痛いからといって私がやめてしまったら、そこですべてが終わってしまう。痛みが少しでも出ないようにと工夫を重ねてくれている義肢装具士さん、コーチ、競技に専念させてくれる同僚、応援してくれるファンの方々、友達、家族……、全員でこれまで可能性を広げてきたから。簡単にやめたくないんです」

「夢のよう」「全員で可能性を広げてきた」というように、秦を取り巻く多くの人たちもまた、秦と同じ夢の中にいるのだろう。まだまだ続く秦の夢は周りへと波及していく。それは、多くの人たちの選択肢を広げるきっかけとなり、人生を豊かにしてくれるはずだ。私たちは、これからも、そんな秦のさらなる活躍を期待せずにはいられない。

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