AIとアートで自分と他者に向き合う。
脳科学者・中野 信子さんに聞く、「人間を知る」方法
2024年9月27日
近代以降、私たちは、生産性が重視され、無駄がなく効率的であることを良しとする社会の中で生きています。コスパに続きタイパ(タイムパフォーマンス)という言葉も浸透している一方で、昨今、そうした環境に生きづらさを覚える、ほころびが広がりつつあると感じるという人も少なくないのではないでしょうか。そんな状況にあって「人間はこれまで種の存続のために、非合理であることを良いことだという認識を築き上げてきた」と語るのは、脳科学者で東日本国際大学 特任教授の中野 信子さん。
合理と非合理がダブルスタンダードとして組み込まれている社会で、私たちがより良く生きていくために必要なスタンスとは何か。「AI」と「アート」を補助線に、人間が持つ価値観のアップデートの可能性について語ります。
すべては種の存続のため。脳に刻まれた“利他”の考え
― 本日はよろしくお願いします。まず、中野さんご自身についてのお話を伺えればと思いますが、脳を研究する道へ進もうとされたのはなぜなのでしょうか。
中野 信子さん(以下、中野):端的に言えば、人間の非合理な考えや判断に関心を持ったからでしょうか。子どもの頃の私は、周囲からは少し変わった子として見られていました。というのも、「仲良くしなさい」とか、「みんなの和を乱してはいけない」といった“大人たちの正しさ”を理解できなかったから。
例えば織田信長が延暦寺を攻めた、比叡山焼き討ち。この事変では女性や子どもにまで手をかけたことで、信長を残虐な人物として取り上げがちです。しかし私は、信長の選択に疑問を持たなかった。子どもを逃がせば、10年もしないうちに成長したその子から逆襲を受ける確率が高まります。敵方の一族を絶やす方が、理にかなっていますよね。でもそれを否定することの方が“正しい”感覚となっています。
また先生たちは「公平に」と言う割に、本当に子どもを公平に見ていたのかというとそうでもなかった(笑)。お気に入りの生徒には目をかけていることは、子どもながらに感じていたし、クラスの人気者とそうでない子では、同じことをしても周りの見る目は違っていました。
こうした合理性の伴わない“正しさ”や、ブレてばかりのフェアネスに、「なぜ?」とクエスチョンマークでいっぱいの毎日を過ごしていました。けれども、この人間社会の非合理さを受け入れられなければ、私は一生苦しむことになる。そこで、人はなぜ合理的ではない判断をするのか、ということについて解明したいと考えるうちに、脳科学に行き着きました。
― 確かに! 合理的ではない部分によって、社会を成り立たせている側面はありますね。
中野:ヒトの脳は、社会性に関する領域が他の動物よりも大きく発達しています。社会性とは平たく言えば周りの個体と良い関係を築くための能力ですが、この進化はホモサピエンスなりの生存戦略でした。
捕食動物がヒエラルキーの頂点に君臨する世界では、動きが鈍くか弱い個体、つまり子どもやメス(女性)から餌食になります。ヒトは哺乳類の中でも体が取り立てて大きいわけでなく、出産回数も非常に限られています。それに子どもが大人になるまでには、10年以上かかりますし、その間、ほぼつきっきりでの大人のサポートを必要とします。独立した個体として生活できる状態になるまでに成長にこれだけ時間と手間がかかる生物は、他に類を見ません。だからこそ、集団を形成することで生き延びてきたのです。
よく考えてみると、実はこの選択自体が非合理なものです。個体が単独で生き残るだけなら、子どもやメスを守る必要はありません。しかし種の存続がかかるとなれば話は別です。集団の利益を優先した行動や、弱い者に献身的な振る舞いを、“正しいこと”、“いいこと”と脳が認識する必要があったのです。
私たち人間は、誰かの役に立てたときや周りから評価されたとき、脳内の報酬系と呼ばれる回路が働いて快感を得ることができます。例えば電車で誰かに席を譲ると、「いいことをした」と感じるでしょう。これも、脳の仕業によるものです。社会性を築くうえでは、こうした利他的な行動により自己肯定感を得る脳の仕組みが必要でした。これが先ほどお話しした、大人たちの正しさというものですね。
― 利他については、メディアなどでもたびたび話題になりますね。
中野:資本主義における経済活動では、「経済合理性」という言葉もあるように、合理的な考えや判断が“正しい”とされます。人間がこれまで築いてきた“非合理的な正しさ”とは、ある意味で対照的です。
多様性社会(ダイバーシティー&インクルージョンの考え方が浸透した社会)も、行き過ぎた合理性の反動から来たものではないかと考えています。単純に生産性のみを考えれば、優秀で体力があり、柔軟性に富んでいる働き手が歓迎されますし、言語も生活観も、そして価値観も同質的な集団の方が断然効率的にマネジメントできます。だから長い歴史の中で、政治や経済の主体を占めるのは自国の男性で、女性や障がいのある人、外国人などの社会参画がなかなか進みませんでした。
しかしこのように近視眼的な捉え方をすると、人間社会は破滅の道をたどることになる。なぜなら、同質的な集団がつくりだす社会システムは、そこに当てはまらない人たちにとっては生きづらく、ひずみが生じてしまうからです。
例えば、もし女性が働きづらい環境であれば、将来への展望も悲観的なものになりますし、そもそも自身の生活の維持が手一杯というケースも生じます。そのような状態では出産を避ける傾向は強まります。現状、少子化社会は先進諸国共通の課題です。これが加速すれば、国は滅亡に向かうでしょう。この流れは、人類の“滅びのシナリオ”の一つです。
ここまで来ても私たちは、どうしても近視眼的な価値判断にとらわれてしまう。わざわざ「ダイバーシティー」と叫ばなければ、そこに目を向けることができない。だからヒトは個人が利益を得るだけでなく、他人や、自身が属する集団の利益になることに喜びを覚える生理的な仕組みや、格差に対し「おかしい」「悲しい」と感じる情動、倫理や道徳などの社会的な枠組みによって、“非合理的な選択”を“正しい”と感じるような、動物としての合理的な感覚に対するふたを、二重三重に築き上げてきたのです。
わかり合えない壁を跳び越える、希望を秘めたアートの力
― 滅びのシナリオには、「利他性の欠如」の他にどのようなものがありますか。
中野:一つは「集団バイアス」です。私たちの脳の処理能力にはどうしても限界があります。だから、仲間として認知できる範囲、「配慮範囲」が生じてしまいます。そして自分の配慮範囲を定めるものとして、“三つの壁”が存在します。
壁の一つ目は“空間の壁”です。例えば自分の住まいの周辺について、「わが街」と愛着を持てるのは、都市部ならせいぜい歩いて1時間程度までではないでしょうか。
次に“時間の壁”です。私たちは、100年先はおろか、30年後のことですら意識しながら生活するなどできません。10年後だって厳しい。もし配慮できるのであれば、結婚で永遠の愛を誓った後に、数年で離婚なんてことは起こらないはずです(笑)。
最後の壁はいわゆる「ダンバー数」※と呼ばれる、“150人の壁”です。安定的な社会生活を送るうえで、仲間と認知できる数は150人程度までとされています。それが人間の脳の限界なのです。
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個々の人が互いに知り合いであり、各人の関係性も把握している範囲の人数。この範囲を超えると、グループの団結や安定を維持するためには、より厳格な規則や法規が必要になると考えられている
― 意外と小さなコミュニティーにとどまるのですね。
中野:私たちは自分が所属する「内集団」に対し、今述べた3つの壁のいずれかを超えたコミュニティーを「外集団」とみなします。普段は内集団も外集団も含めたあらゆるコミュニティーをフラットに評価できたとしても、何かが起きたときには、外集団の方が劣っている、間違っているといった考えになりがちです。これが、集団バイアスと呼ばれるものです。
ちょっとしたきっかけで集団バイアスが過度に働くと、いさかいや確執の火種になるのは明白でしょう。さらに激化すれば、相手を攻撃することが、倫理的には許されなくてもその集団の“正義”になってしまいます。その行き着く先は、歴史だけでなく、現代においても、皆さんの想像のとおりです。
そしてシナリオのもう一つは、「コモンズの悲劇による資源の枯渇」です。コモンズの悲劇とは、それぞれのコミュニティーにとってはベストな判断を下したとしても、全体で見れば限られた資源の取り合いになり、最終的にはどのコミュニティーも不利益を被る状態を指します。水産資源の乱獲や、化石燃料と地球温暖化の問題は、代表的な例といえます。
これら三つのシナリオは、持続可能性や中長期的な視点に欠け、自分たちが生きている今の世界に焦点が集まっているという点で共通しています。
― 私たちはふとした弾みで、滅びのシナリオを選びかねないということですね。
中野:そのとおりです。これまで人間は社会を形成するうえで、回避や抑止のための策を長い歴史の中でいくつも編み出してきました。ひとつは“信仰”です。風習やしきたりなどを通じ、人としての良い行いを定義化してきました。そして文明の発達によって、近代以降は“科学”がそれに取って代わっています。例えば、疫病の予防や治療において、かつては儀式や祈りが行われていましたが、近代以降はワクチンや抗生物質などの科学的な方法が主流となりました。また、社会のルールや法律も、科学的なデータや統計に基づいて制定されることが増えました。
特に戦後以降の科学の発達には、目を見張るものがあります。私が子ども時代を過ごした1970年代後半から80年代にかけては、科学に夢がありました。私自身も、科学が示す合理的な考えは正しいと、信じ続けてきたのです。
しかし、どうでしょう。科学は人間社会の破滅を阻む存在となれたでしょうか? 地球を壊すにはあり余るほどの兵器があふれていますし、行き過ぎた資本主義は貧富の差を生み、私たちから生活の余白を奪いました。すなわち科学の合理性は私たちに一定の豊かさをもたらす一方で、種の存続のために培ってきた非合理さとはマッチしなかったのです。
― 科学が絶対のものではなさそうだということには一定の納得感がある一方で、それでは何を軸に次の策を考えていけば良いのでしょうか。
中野:私が今注目しているのはアートです。美にまつわる人間の判断や行動は、面白いほど非合理なものです。なぜ赤の他人が描いた古い絵画に、何百億円もの値がつくのでしょう。またルッキズム※に対する世間の批判が高まろうとも、人間は残念なことに美しい人につい好意を抱いてしまいます。
人間は美という非合理な判断を、進化の過程でどうして選択したのか。その理由を知りたくて、美やアートと、認知について研究を続けています。
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外見のみで人の価値を測るような考え方や言動を指す
― アートが滅びのシナリオを食い止めると考えるのは、なぜでしょう。
中野:アートは先ほど申し上げた、配慮範囲を超えた外集団の理解を促す可能性を秘めているからです。民族の歴史に文化、風俗、社会観、そこにいる人々の内面を反映させた作品の数々は、“わたし”が普段の暮らしで所属しているコミュニティーにはない世界を描いています。ここで言うコミュニティーとは、具体的には、家族、友人、職場の同僚、学校のクラスメイト、地域の住民などが当たりますが、つまり、共通の価値観や文化、関心を持つ人々が集まって形成される集団ということになります。すなわちアートは、空間の壁、時間の壁、そして150人の壁を越えて、互いをわかり合うツールとなり得るのではないかと。
ヒトの脳は、何かしらの現象や言動を“正しい”と判断する領域と同じところで、美しいものを“美しい”と判断します。このことは人間が築く社会性と美意識の間には、深いつながりがあることを示唆します。それぞれのコミュニティーが大切にする“正しさ”を理解するうえで、アートは架け橋の役割を果たすはずだと期待しています。
人間とAIとの距離感を考えるカギは“虚構”にあり
― 話は変わりますが、ここ数年AIの急速な進化が注目されています。
中野:そうですね。AIが人間の仕事を奪うとか、シンギュラリティ※がすぐそこまで来ているといった話はよく聞きますよね。しかしながら、今の時点でAIがカバーするのは言語領域に偏っており、特にAIやロボットと人間を分ける大きなポイントである「身体性」については、ほとんど研究が進んでいません。
例えばAIが、超絶面白いコントの台本を書けたとしても、それを実際に面白く語れるかはまた別の話です。コントはストーリーに加えて、演者の絶妙な間やタイミング、抑揚によって“笑い”が起こるからです。一線級のコメディアンは、笑いのスイッチを場に合わせて絶妙に加減するテクニックを持ち合わせているので、爆笑の渦を起こすことができます。こういったことも身体性の一つです。
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人工知能(AI)が人間の知能を超える技術的特異点。この時点を境に、AIは自己改善を繰り返し、急速に進化することで人類の生活や社会に大きな変革をもたらすとされている
― 淡々と読み上げられるコントのストーリー……想像するとやや不気味ですね……。
中野:そうですよね(笑)。人間の動きを数値化し、AIに学習させることは今の技術でもある程度はできるでしょう。しかし動きの持つ意味や、小さな仕草に込められた願いや心情、観客が醸し出す場の空気感までとなるととてつもなく難しい。人間の感覚は抽象的で、やはり合理的ではありません。再現するには条件が複雑で、選択肢は無限大です。
AIが人間の非合理さそのものを理解できる日が来るのは、まだまだ遠い先のことだと思います。
― やはりAIは人間とは異質なものなのですね。
中野:それはそうなのですが、完全に別のものと線引きしてしまうのも違うかなと。AIは社会性に縛られず極めて合理的なアウトプットを提示します。それは時に、良識を超えたものとして、“ゆがんでいる”と受け止められがちです。しかし本当にゆがんでいるのは、AIなのでしょうか?
2010年代中頃、世界的なコンピューター会社が開発したAIチャットロボットが、公開から1日とたたず停止される出来事がありました。AIがTwitter(現:X)から差別的な表現や暴力的な表現を学習し、レイシスト※と化したからです。けれどもAIが手本としたのは、人間がつぶやき続けた言葉たちです。つまるところ、人間は本能的に差別意識や暴力的側面を抱えているのです。人間の本質はフェアでもなければ、美しくも賢くもないのだなと。
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人種や民族の違いに基づいて他者を差別する人。特定の人種や民族に対して偏見を持ち、不公平な扱いや言動を行う
― AIを鏡にして、自分たち人間がどういう生き物なのかを知るというか。
中野:そうですね。あと、AIって嘘というか、けっこう間違った情報を出したりしますよね。これを「ハルシネーション」といいますが、個人的にはここにAIと人間が付き合って行くためのカギがあると思っています。ハルシネーションとは「幻覚」というような意味で、さも真実かのように、AIは虚構を語ります。
私たちの社会は、私たち自身が考える以上に虚構にあふれています。エンターテインメントなど、その最たるものです。小説も映画も、ドラマもマンガも、それにゲームだって、VR上に広がる街並みも現実には存在しません。さらに突き詰めれば、企業が発する理念やビジョン、貨幣の概念だって虚構です。それでも私たちは、エンターテインメントから活力をもらい、ビジョンを通じて一枚岩となり、貨幣を通じて価値の交換を行っています。
そう考えると、AIがこれから先つくり出す虚構に、私たちはもっと期待してもいいのかもしれない。AIが“嘘をついた”と捉えれば人間味のある動きともいえます。もちろん本当に正確な情報を欲しているときに嘘をつかれると困った、となりますが、コミュニケーションという面では楽しくなるかもしれませんよね。
人間を知り、自分と向き合い、新しい幸せ要素を探る
― 私たちが今後より良く生きていくためには、どのようなスタンスが必要だとお考えでしょうか。
中野:先ほどお話しした配慮範囲の三つの壁。それらを越える福音に、アートとAIがなり得るということです。アートも、AIがつくり出す虚構も、内集団の価値観や常識を揺るがし、外集団とわかり合う視点として機能すれば、私たちを滅びのシナリオから救ってくれるかもしれません。
人間は、無意識に特定の領域について考えることを止めてしまったりする、脳に備わるリミッターの働きや社会規範など、つまり先ほどお話しした“二重三重のふた”によって、本来は自由で無限なはずの表現に、制約をかけてしまうところがあります。けれどもAIにはそれがない。仮にプログラミングの段階で、人間の手によって倫理的制約をかけられたとしても、私たちの想像をはるかに超えた表現を繰り出してくる可能性があります。
仮にそれが社会を揺るがすような問題表現であったとしても、私たちが正しく扱えればいい。そのためには人間の側も成長が必要ですが、そうした形でAIと共同作業が行えたら、けっこうステキな未来が待っているのではないでしょうか。
― AIは、私たちを幸せにするツールになり得ると。
中野:そうですね……、“幸せ”の定義がなかなか難しいのですが。なぜなら幸せの価値は、測りようがないからです。人間には「幸せである」という絶対的な状態はなく、自分以外の誰か、何かとの比較によって幸せを感じるところがあります。
けれども他者と比較する形で幸せを評価すれば、同時に自分の幸せは誰かの幸せとの比較対象となります。「どちらが幸せか」とイタチごっこを繰り返しているうちは、幸せにはなりきれないのです。それも人間らしいと言えば、そのとおりなのですが(笑)。
比較が避けられないのであれば、他者との比較ではなくても、過去の自分と比べて幸せを感じる方法もありますね。例えば、難しい本が読めるようになったとか、世界情勢に関心が持てるようになったりとか、いわゆる成長が実感できたり、友人の存在をありがたく感じられたりといったような感覚的なことでもいい。いずれにせよ、自分が「前と比べて良い」と思えれば、私たちは幸せを感じられるようにできているのです。
― なるほど。
中野:そして私たちが暮らす資本主義社会では、“富”が幸せの主要因になってきます。けれども富には限りがあり、おのおのが利益を追求すればコモンズの悲劇が生じてしまうでしょう。ここまで話した幸せの構造に当てはめると、地球上の誰かが富を得る裏では、誰かが泣いていることになります。
すなわち私たち人間は富に代わる、幸せの新たな尺度を必要とする時期に来ているといえるでしょう。その役割を果たすのは、もしかしたらアートのような美に対する感覚や活動かもしれません。また人間が幸せになるプラスの差分要素について解析できるとなれば、それこそAIが得意とする領域ではないでしょうか。
例えば「あなたにとってより良くなったことを感じるには、○○に目を向けてみると良いですよ」と、AIが一人ひとりに合った幸せになる方法をナビゲートしてくれたら、これほど人間にとって心強いパートナーはいないはずです。
私は今でも幸せですが、もっと幸せになれる世界線ものぞいてみたい。AIにはもうちょっと頑張ってほしいですね(笑)。
― 今の自分の価値観が、自分自身のものなのか、社会が用意したものなのか、改めて考える必要がありそうですね。
中野:そうですね。今回のお話を大きくまとめると、まず「『人間とは何か』について知る」ことが重要だと思います。そして自身についての状態と仕組みを知れば、安心につながります。例えば体調が悪いときに、風邪なのか、もしかしたら別の原因があるのか、分からないと不安ですし、対処の仕方も変わってきますよね。
大枠として「人間には合理と非合理が同居していて、利他的行動で喜びを感じるものなんだ」というのを知り、そこから自分の幸せについて考えていく。私はそのための補助線としてAIとアートを挙げましたが、これは人によって違うかもしれません。
自身と他者について、とにかく考え続けること。やはりこれが、これからの社会や世界を、自分なりにより良く生きていくために大切なことなのではないでしょうか。
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